2024年11月3日(日)
水のバプテスマと聖餐式
Water Baptism And The Holy Communion
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント11:26)
水のバプテスマを受けていないのに聖餐式にあずかるのは正しいことなのかと尋ねる人がいます。まず、キリスト教には聖餐式や水のバプテスマのような神聖な儀式があります。
マルコの福音書16章15節から16節で、主イエスは弟子たちに福音を地の隅々まで、またすべての人に広めるようにと命じ、水の洗礼の重要性を強調されました。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:16)マタイ28章19節では、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」と言われました。
そして、1コリント11章23節から26節で、パウロは主から受けた重要な啓示を語っています。主イエスが裏切られた夜の出来事を語り、聖餐式の深い意味を強調しているのです。その結果、水のバプテスマと聖餐式は互いに依存するものではなく、水のバプテスマを受けていなくても聖餐式にあずかることができるのです。聖書は、水のバプテスマを受けていなければ聖餐式にあずかれないとは規定していません。
しかし、多くの教会では、しかし、多くの教会では、バプテスマを受けた教会員のために聖餐式を行うことが多いです。この習慣に問題はありません。 多くの人がそうする理由は、バプテスマがイエス・キリストの死と埋葬と復活への完全な信仰と献身のしるしとみなされるからです。それは福音を完全に受け入れたことを意味するのです。
初代教会では、大きな迫害の間、個人が信仰について尋ねられ、それを否定した場合、彼らのバプテスマの有無をキリストへの真の献身の証拠として用いられ、しばしば 迫害することもありました。
教会は通常、信じていない人にバプテスマを授けることはありません。そのため、多くの教会では、真のクリスチャンはバプテスマを受けるべきであり、バプテスマを受けた者にしか聖餐式を受けることができると信じているのです。この習慣は称賛に値するものであり、クリスチャンの信仰における洗礼の意義を尊重したいという教会の願いと一致しているのです。
祈り
愛する父よ、私は聖餐式と水のバプテスマが私の信仰と神への献身の象徴であることを認識しています。聖餐式にあずかるすべての機会は、サタン、この世、そしてその要素について私の勝利を宣言すること主イエスがご自分の富、権利、特権を私に遺贈されたことを宣言することです。私は、罪、わずらい、病気、死、悪魔に対する永遠の勝利と支配権を持っています。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(マタイ28:19-20)それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(使徒2:41-42)そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた、その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
(1コリント11:23-25) 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」