2022年6月24日(金)
御霊に導かれて歩む
Walk In the Spirit

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)

私たちの普段のクリスチャン生活は、御霊に導かれて歩むことです。御霊に導かれて歩むとは、信仰によって歩むことです(第二コリント5:7)。つまり、私たちの目は常に御言葉が語っていることに向けられ、状況や感情、あるいは感覚が私たちに教えてくれるものにはないという意味です。

アダムがエデンの園で罪を犯したとき、彼の霊は彼の感覚に支配されるようになりました。言い換えると、彼の霊は堕落したのです。それまで、彼の知識は霊的なものでしたが、神への不従順によって堕落したとき、彼は感覚に支配されるようになりました。そのわけで、神は、それについて警告していたのです。「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)。これは霊的な死なのです。

アダムは善悪の知識の木からは取って食べ、彼は死にました。彼はすぐに神から切り離されたのです。それ以前、アダムは神の臨在を慕いましたが、彼の不従順の後には、その同じ臨在から身を隠しました。(創世記3:9-11)

そこには非常に重要なことが二つあります。一つは、霊的な死が彼を神から引き離したことです。神は命であり、人は神から離れると、もはや神が見ているものを見ることができなくなります。アダムは神の栄光を見ることができませんでした。アダムが後に、自分の裸を見たのも不思議ではありません。

あなたが御霊に導かれて歩むときは、あなたは神の栄光、神の光、神の美しさを見ます。あなたは神が見ているものを見ます。あなたは、神の視点から見ることができます。しかし、あなたの霊が神の光の中を歩いていないと、あなたは暗やみが見せるものを見るようになるでしょう。あなたの感覚が見るものを見ているでしょう。それがエデンの園でアダムに起こったことでした。

ローマ9章8節に「…肉の子である者たちは、神の子ではありません…」とあります。肉の子とは、感覚に支配された人たちのことです。しかし、神に感謝します。最初のアダムとのつながりは、完全に、そして永遠に断ち切られたのです。あなたは、御国から来られた主から生まれたのです。したがって、御霊によって、それにふさわしく歩むべきなのです。

御霊に導かれて歩むなら、あなたはこの物理的な世界の要素、失敗、挫折、暗闇、腐敗の上に置かれていることが分かるでしょう。あなたはこの世よりも偉大な天の領域から来て、その中で住んでいることがわかるのです。ハレルヤ!

祈り
愛する父なる神よ、私の信仰はこの世に打ち勝つ勝利であることを感謝します。私は状況や環境を自然な立場や五感から判断するのではなく、主の御言葉の視点からそれらを見ています。私はこの世の犠牲者ではなく、キリストにあって勝利者です。ハレルヤ!

参照聖書
(ローマ8:3-8)肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。

(第二コリント5:7)確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

(ガラテヤ5:16-18)私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。