Always Being Transfigured

「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」 (ルカ9:29)

イエスは祈るために山に登られ、御顔の様子が変わったというイエスの体験に従って、私たちも変化を求めて特定の山に行くべきだと思っている人がいます。違います。それは、ただの山でした。

明らかに、イエスは祈るにつれて変容することがよくありましたが、ルカ9章の記述では、弟子たちがイエスと伴われたときに、イエスの変容を見ることができました。神は、イエスの起こっている姿の光景をはっきり見せるために、彼らの目を開いてくださいました。イエスから白く光り輝いた栄光が発散されました。弟子たちの目が開かれていなければ、彼らはその変容を見ることがなかったでしょう。弟子たちがエリヤとモーセも見たのは、彼らの霊的な目がしばらく開かれたということを示しています。

今、私たちが御霊の中で祈るとき、変容の山でイエスに起こったことが起こります。私たちは変貌します。私たちは文字通り内側から輝いています。それは霊的なことですから、主が弟子たちに行なわれたことのように、主が彼らの目を開いてくれない限り、あなたの周りの人々はその変容に気づくことができないでしょう。

神の栄光は、あなたの霊の内にあります。あなたの霊は、キリストによって栄光を現します。その栄光は、あなたが祈るとき、そして神の言葉を勉強し、瞑想するときに、あなたから光を放ち、あなたの周りのすべてに浸透します。

使徒行伝6:15で、ステパノが逮捕され、議会に立たせたときの彼の証言を忘れないでください。聖書は彼が御使いの顔のように見えたと言います。彼らはスデバンの顔がそのように明るく輝くのを毎日見たわけではありません。 その瞬間、彼の顔に現れた栄光を見るように、人々の目は突然開かれました。

イエスが復活された後に、二人の弟子たちに現れた時にも同様のことが起こりました。イエスは彼らと長い距離を歩き、そして彼らの家までついていったが、彼らはイエスを見分けることができませんでした。しかし、イエスは彼らと聖餐を交わしたとき、彼らの目が開かれ、その時になって、イエスを見分けることができました。しかし、イエスは即座に彼らの視界から消えました。(ルカ24:16-31)

他の人は、あなたから出る栄光を見ることができないかもしれません。彼らの目は、あなたの栄光を見るように開かれていないかもしれません、しかし一つ明確なことは、神の栄光があなたの上にあり、あなたの霊のうちにあるのです!あなたは御霊との交わりを通して、常に栄光から栄光へと変貌していきます。それは祈りのすばらしい恵みの一つです。

告白
私は聖霊に満たされたことで継続的に変わっていきます。私が異言で祈るとき、私の霊、魂、体に超自然的であり、全体的な変化が起こります。私の霊は、世界のすべてのものに対する支配権を得て、私は高い建物のように自分自身をますます高く建て上げられます。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(1コリント14:2) 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。

(2コリント3:18) 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。