THE “KNOWING” OF FAITH
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
主と私たちの関係は信仰の一貫性です。それは、あなたの外的で「感じる」のものとは関係ありません。肉体的な感覚とは何の関連がありません。多くの場合、私たちが主を経験するものは、人間の言葉ですべて説明することはできません。しかし、内面の深い所での「知る」、つまりあなたの霊の認識があります。
これは、マルコ5章で長血の病を抱えている女の説明を思い起こさせます。彼女は12年間、出血に悩まされていましたが、どの医師も彼女を助けることができませんでした。聖書に、「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。」(マルコ5:28)とあります。そして、次の節ではこう述べています。「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」(マルコ5:29)。彼女は自分の体に感じた「感覚」が癒しであったことを、どうやって知ったのでしょうか?それは働いていた彼女の信仰でした!
聖書は、「出血が止まったのを見た」とは言っていません。「ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」と言っています。それは信仰からの感じです。使徒3章に記録された、美しい門という神殿の門にいた足のきかない人の話しで、聖書は、ペテロが彼に仕えたとき、彼の足と足首の骨が力を受けたと言っています(使徒3:6)。骨は感覚を感じません。ですから、それは物理的な「感覚」ではなかったでしょう。しかし、何かが彼の足と骨に注入され、彼の足と足首の骨が力を得ることを知っていて、そのように言われたのです。その結果、男は飛び上がって歩きました。彼の信仰は働いていたのです。彼の反応によって、ペテロが話した言葉の力が現れ、奇跡が起こりました。
ダビデの話しも思い出してみましょう。聖書によると、ダビデは神が自分をイスラエルの王に定められたことを「認知した(perceived)」と言っています。これは単なる精神的または肉体的な知識ではなく、ダビデの霊の中の知識でした。あなたが聖霊と御言葉の導きに敏感であるとき、経験ができる信仰の知識、信仰の聴取、信仰の感覚、または知覚があります。
祈り
愛する御父よ、あなたが私に与えてくださった真実な御霊において感謝します。私はあなたの導きと矯正に敏感なので、常に何をすべきかを知っています。御言葉による私の利益は、明らかです。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(ローマ10:17) そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
(ヘブル11:6) 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
(ヤコブ2:18-26) さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。20 ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24 人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。