2023年9月30日(土)
信仰は心の次第
It’s A Matter Of The Heart

「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7:5)

ヨハネの福音書7章3-5節には、イエスの兄弟たちについて驚くべきことが書かれています。彼らはイエスを信じず、懐疑的であったのです。彼らは仮庵の祭りに行く準備をしているとき、イエスに言いました。「…あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」

5節には特に、「イエスの兄弟たちもこのように彼に差し迫っていました。兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」とあります。彼らはイエスの誕生にまつわる状況を知っており、 御使いが現れた母マリアと父ヨセフからその話を聞きました。それでも彼らは信じなかったのです。

信じることは心のからの問題だからです。そして神に感謝します!イエスの兄弟たちの見方や意見が変わったのは、イエスの奇跡的な昇天を目撃したときでした。その時、彼らは信じたのです。それは最も驚くべき出来事でした!

彼らが他の弟子たちとともに立っていたとき、「彼らが生涯知っていたイエス」は突然消え去ったり、姿を消したりしたのではなく、むしろ主は栄光を受けた肉体を持ったまま、彼らの目の前で天へと昇って行ったのです。この時初めて、彼らは自分たちが共に成長する特権を与えられた方が本当に神であることを悟ったのです。

この信じがたい出来事は、イエスの起源について彼らの心に疑いや推測の余地を残しませんでした。今、彼らは主イエスが本当に天から来られたことを正しく理解したのです(ヨハネ8:23)。使徒の働きを読むと、ルカは最初の章で、イエスの母と血肉の兄弟たちが、弟子たちの仲間に加わり、彼らとともに交わりを続けたと書いています。(使徒の働き1:13-14参照)ハレルヤ!

ですから、どんな話を聞いても、どんなに御使いの訪問を受けても関係なく、あなたは心から信じる選択をしなければならないのです。パウロがローマの手紙10章10節で言っているように、信仰は心にかかっているのです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

真の信仰は心から生じるのです。しかし、心を開いて情報を受け取り、それを受け入れる決断をしなければならないのです。ハレルヤ!

祈り
愛する父よ、父の御言葉の働きに触れ続けて、私の信仰を表明する機会を与えてくださることを感謝します。いつも私の心は整えられ、受容的で、御言葉を喜んで受け取る準備が完全にととのっています。私の心と思考、行動を御言葉の真理に合わせるとき、私の人生を変化する神の御言葉の力を経験します。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(ローマ10:10)人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ヨハネ20:29)イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

(使徒1:9-14)こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。