2024年9月22日(日)
信仰は「見る」ことができる
Faith Can Be “Seen”

「信仰は望んでいる事がらを保障し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)

信仰には、明確に理解されなければならない奥深いものがあります。信仰は「見る」ことができますが、目で見るのではなく、霊の中で見るのです。ヘブル11章1節にある信仰の定義は、神が御霊によって人間に示した説明です。霊の領域で、信仰は言葉では表現しきれません。信仰は霊であり、霊において「見る」ことができるからです。

たとえば、マルコの福音書2章で、イエスがある家で教えられたとき、聖書によると、そこは人でいっぱいになり、戸口まですき間がないほどだったそうです。4人の男が中風の寝たきりの病人をかつがれて、その群れを突き抜けようとしました。しかし、大勢の人が集まっているため、彼らはイエスのみもとまで戸口を通り抜けることができませんでした。それで、屋根に上ってそこをはがし、穴をあけて、中風の人を寝かしたままその床をイエスの目の前につり降ろしたのです。聖書は、こう言っています。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました』と言われた。」(マルコ2:5)

イエスは彼らの信仰を「見たのです」。どのように見ましたか、それは彼らの行動を通して見たのです! パウロはリストラで、生まれてから足が不自由で一度も歩いたことのない男について同じような経験をしました。聖書は「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」(使徒14:9-10)とあります。

パウロは、彼が御言葉に耳を傾け、それを受け止めている様子から、彼の信仰を「見た」のです。ユダヤ語聖書訳(Complete Jewish Bible)では、パウロは、「……彼をじっと見て、彼が癒される信仰を持っているのを見て、大声で 『立ち上がりなさい!』と言った。彼は飛び上がって歩き始めた。」と書いてあります。

信仰は、あなたの言葉、行動、そして性格にまで表れるのです。信仰は受動的なものでも従順なものでもありません。あなたは行動によってあなたの信仰を証明するのです。それで、聖書はこう言っています。「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)信仰とは、脳や思考の反応ではありません。信仰は、神の御言葉に対するあなたの霊の反応なのです。ハレルヤ!

祈り
愛する父よ、私は周りの状況や報告に関わらず、神の御言葉に私の信仰をしっかりと堅くします。私は自然を超えて見て、信仰の目を通して神の御心と目的を認識します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(ローマ10:17)そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

(ヤコブ2:17-18)それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

(へブル11:6)信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

(使徒14:8-10)ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。