Living By Faith

“(私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んで[行な]います。)”(コリント人への手紙第二5章7節KJV)

 今日の聖書箇所が括弧の中にあるのは、パウロがその前に違うことについて述べていたからです。一つの主題を扱っていながら、一つの原理として、これを浮き彫りさせるために言及したので、これはパウロがキリスト人への手紙を書いていて、キリスト者であれば信仰により行なって歩むのは、当然である事を話していたのです。信仰は、必要がある時にだけで達するものではありません。信仰は、私たちが常に行う、私たちの生活方式です。キリスト教で私たちは目に見えるものにではなく、信仰によって生きるのです。というのは、私たちの目がいつも御言葉に注目して、環境や私たちの感覚が教えるものに視線を奪われないためです。

 「生きる為には呼吸しなければなりません」という言葉は、無理に言わなくても誰でも知っています。人間としてこの地で生きる為には、ある時は呼吸をして、ある時は呼吸をしない事を選択できるのではなく、常に呼吸しなければいけません。それと同じように、霊の領域で神に対して生きる為には、信仰によって行なって歩まなければいけません。それがキリスト者として私たちの正常的な生き方です。その訳でイエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。(マタイ4:4)」と言われたのです。

 ある人達は、「神様が私に信仰を与えてくれたら、信仰によって生きます!」と言うかも知れません。しかしクリスチャンとして、あなたは既に信仰があります。福音を受け入れた時、あなたには信仰がやって来たので、信仰を得る為にあがく必要はありません。ローマ人への手紙12章3節には、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」と言います。パウロが誰に語っているのかを注目してください。「あなたがたひとりひとりに」つまり、世界にいる全ての者ではなく、教会に属している全ての者を指しているのです。

 クリスチャンは誰でも信仰があり、その信仰がどんなに小さくても、山を動かせることが出来ます。イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)」と言われました。ですから、あなたの信仰が小さすぎると思ってはいけません。最小の信仰でも、山を動かすほどの十分に強力であります。しかしながら、あなたは信仰を成長させないといけません。御言葉を学び、その御言葉に沿って行動する程に、信仰は成長し力強くなります。

 あなたが信仰の領域で歩むことを常に自ら思い起こして下さい。あなたは感覚の知性によって生きるのではなく、霊によって生きています!

祈り
愛する御父よ、私に勝利する信仰を下さり感謝します。私は状況や環境を自然的な観点や感覚に従って判断せず、御言葉の視点から見ます。私は、今日、聖霊により喜びに満ち、いつも勝利する人生を生きます。イエスの御名の中で祈ります。アーメン。

参考 聖書
コリント人への手紙第二4:18  私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

ヘブル人への手紙11:1  信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。