2022年8月9日(火)
主の願いに沿った祈り
Praying In Line With His Desire
「 何事でも (神御自身のご計画に沿って) 神のみこころにかなう願い を(願い求める)するなら、神はその願いを聞いてくださる[聞き届けてくださる]ということ、これこそ神に対する私たちの確信[保証と大胆さの特権]です。」(第一ヨハネ5:14 AMPC)
時々、人は「父よ、御心のままに」と祈りますが、この言葉の重要性を理解していません。この言葉は何気なく口にするものではありません。ただ「御心が叶えられますように」と祈るのではなく、その御心が何であるかを知る必要があります。イエスが祈り、同じ言葉を発したとき、イエスは父なる神の御心が何であるかを正確に知っていて、それを口にしたのです。
ある状況において、あなたが神の御心がなされるようにと祈る前に、その御心が何であるかを知っておいた方がいいのです。御心と願望は違います。ある時点では神の御心であっても、それが神の願望であるとは限りません。聖書から例を挙げましょう。イザヤ書38章に、ヒゼキヤ王が病気になったときの話が書かれています。預言者イザヤは、神からヒゼキヤのもとに遣わされ、彼がすぐに死ぬので、家を整理するようにと告げられました。その時、神はヒゼキヤ王の命に対する主の明確な御心を述べられました。
預言者イザヤからのメッセージを聞いたヒゼキヤ王は、顔を壁に向け、泣きながら神に祈りました。聖書には、「そのとき、イザヤに次のような主のことばがあった。『行って、ヒゼキヤに告げよ』あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう」(イザヤ38:5)とあります。神をほめたたえます!
もしヒゼキヤ王が、自分が死ぬという言葉を聞いたとき、「主よ、御心のままに」と答えていたら、死んでいたかもしれません。しかし、ヒゼキヤ王はそれが自分に向かう神の望みではないことを知っていました。彼は、神が自分を神の賛美のために造られたことを知っていたのです。ですから、彼は主に向かってこのように祈りました。「死者はあなたを祝うことができません。生きている者だけが 今日、あなたを賛美することができるのです」(イザヤ38:18-19)。
ある事柄について神の御心を求めて祈るとき、その事柄が神の性質とどの程度一致しているかを見るのです。そうすることで初めて、その事柄についてどのように祈るのが最善であるかがわかります。例えば、旧約聖書の中で、神はあらゆる戦いのうち、イスラエルの子らを導き、彼らのために戦われました。それでも、聖書は神が平和の神であると教えています。神は、聖書の中で他のどの名よりも平和の神として知られています。このことは、主が本当に望んでおられるのは戦争ではなく、平和であることを示しています。神に関するこの知識は、あなたがいつも御言葉の中で明らかにされた主の願いと一致する祈りを常にできるのを助けるのです。
祈り
愛する父よ、私は主の御言葉の真実、主の愛、そして私たちの魂が繁栄し、健康であるようにという主の願いを明らかにする主の永遠なる優しさに感激しています。今もなお、私の祈りを聞き、それに答えてくださることが主の喜びであることを知り、私は祈る確信を強めています。主の愛と力が私の中に働いていることを確信して、今日も私の喜びは満ちあふれています。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(第一ペテロ3:12)主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。
(ローマ8:26-27)御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
(ルカ22:41-44)そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。