Submit To His Righteousness

“兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。”(ローマ10:1-3)

イザヤ54:6は私たちに人間の義について語っています。彼らが神様に仕え、神様を喜ばせるために自ら巡らせた方法はまるで汚れたぞうきんのようものでした。あなたのいわゆる“良い行い”が神様の前であなたを保障してくれると信じる確信は何の意味もありません。

 これがイスラエルの子孫たちのジレンマであり、本文の御言葉で使徒パウロが批判したことであります。たとえ、彼らが神様に熱心で、あらゆる宗教的な献身と浄化、奉献に熱心であったとしても、彼らは彼らの義を追及するにあって、三つのはっきりとした間違いを犯しました。一番目に彼らは神様の義を無視しました。二番目に彼らは、彼ら自身の義を立てました。三番目に彼ら自身が神様の義に従われませんでした。

 三番目の点は、神様は私たちに何を望んでおられるのかを見せています。私たちは主の義に従わなくてはいけません。なぜならば、義はあなたがあなた自身の努力によって得るものではありません。それは神様の賜物です。ローマ5:17は言います。“もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。”神様の義を得るために必要なのは、ただあなたの全心と霊によって、イエスキリストを信じて永遠のいのちを受け入れることだけなのです。これが信仰による義と呼ばれる理由です。

 ピリピ3:8-9は、私たちにイエスキリストを信じる信仰によって、この義を受け入れるようにと語っています。“それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。”この義は、あなたの中で神様の義を生み出します。あなたは本能的に何が正しいのかを知るようになり、神様の前で傷のないものとして立つことが出来ます。あなたはそれを得るために努力しません。それにも関わらずそれは、賜物としてあなたの霊に与えられあなたの中で働きます。

告白
神様の義が私の霊に移されました。したがって私は、正しいことを行なう力を持っており、父の前で傷なく喜んで生きます。私の中にある主の義は、主と共に生きる権利を与え、サタンと暗やみの悪魔よりも優勢です。

参考聖句
Ⅱコリント5:21、ローマ3:21-22