2025年1月4日(土)
主の犠牲的な愛
His Sacrificial Love
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
冒頭の聖句は、使徒パウロを通して聖霊が語ったローマの手紙5章8節の言葉を思い起こさせます。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」このような犠牲的な愛について考えてみましょう。キリストは私たちの身代わりに罪に定められたのです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)と聖書に書かれているのも不思議ではありません。
「罪に定める」と訳されている言葉には「裁き」という意味もあり、イエス・キリストは私たちのために裁かれたのです!2コリントの手紙5章19節(NIV訳)には、「…神は、キリストにあって、世をご自分と和解させ、人の罪を顧みられることはありませんでした…」とあります。あなたは気づいたでしょうか? 神は人々の罪をイエスに負わせられたので、人々の罪のために彼らを責めておられないのです。何故なら、神はそれらの罪をイエスに負わされたからです。イエスは罪を背負う者となられたのです。
1ペテロの手紙2章24節には、さらにこう書かれています。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」私たちが罪人のために祈るとき、神が与えた啓示を彼らが受け入れるように祈るのはそのためです。キリストが罪を背負ってくださったのだから、もう罪の中に生きる必要はないのです。ハレルヤ!
2コリントの手紙5章14節には、「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」これは全く合法的であり、論理的な事です。彼がすべての人の為に死んだので、すべての人が死んだのです。15節にはこうあります。「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」自分のために生きるのではなく、主のために生きてください。これが主の犠牲的愛に対する正しい応答なのです。ハレルヤ!
祈り
愛する父よ、私たちの罪を負い、私たちの裁きをその身に受けてくださったイエス・キリストの尊い犠牲を感謝します。この世の人々をご自分と和解させ、そして今、私たちが、この栄光の真理を他の人々と分かち合う和解の務めを持つようにしてくださったことに感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(1ヨハネ4:9-10)神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(2コリント5:21)神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(ガラテヤ2:20)私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。