The Lord’s Supper And The Holy Communion
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。 」(コリント第一 11章26節)
たとえ聖餐(The Holy Communion)と主の晩餐(The Lord’s Supper)が、同じ意味を持つ用語で多く使われるとしても、この両者の間には大きな違いがあります。聖餐は、主の晩餐ではありません。主の晩餐は「最後の晩餐(last supper)」、あるいはイエスが弟子たちと一緒になさった食事を記念するものです。したがって、これは実際には “最後の晩餐(Last Supper)」または「過越の食事(Passover meal)」なのです。なぜなら、これが主と弟子たちが一緒になさった最後の食事であるからです。 「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」(ルカ 22:16)
聖餐は、共観福音書(マタイ26:26-29、マルコ14:17-25, ルカ 22:7-22)と、ヨハネ福音書(13:21-30)、そしてコリント教会に送ったパウロの最初の手紙の中でさらに強調されます。その時に起こった事は、このようです。その夜、イエスは弟子たちと一緒に過越の食事を取りました。彼らは食べる時、イエスは、「また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:27-28) これが聖餐です。イエスは、彼らと一緒にパンを取り彼らと同じように杯を飲みました。
新約聖書によると、私たちに「最後の晩餐」や過越の祭りを記念しなさいと言わず、聖餐にあずかることを頼みます。イエスは言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(Ⅰコリント11:25) あなたが聖餐をあずかる全ての機会は、私たちのためにイエスが成された全てのことを、覚えて熟考するためなのです。イエスの体はあなたのために砕かれました。聖餐式は、カルバリであなたのために流されたイエスの血の力と、罪をきよめる救いの力を思い巡らせ、それを記念する時間です。
あなたは聖餐をあずかる度に、あなたの勝利は、いっそう続き確実になるでしょう。聖餐をあずかることは、あなたが勝利者であり、病、罪、貧しさ、死、そして悪魔を支配する者であることを知らせることです。
祈り
愛する御父よ、キリストの血と身の聖餐を通じて、サタンと、この世の中と、その要素を征腹した私の勝利を強調してくださり感謝します。 十字架の上で私の身代わりとなったキリストの死を通じて、私は永遠な成功を得、罪と弱さ、病気、死、そして悪魔を支配します。 イエスの御名で祈ります。 アーメン。
参照聖書
Ⅰコリント11:27-30 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
Ⅰコリント11:20-25 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」