He Took Our Place

“私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。”(イザヤ53:6)

聖書は、罪を知りもしないお方(イエス様)が私たちの代わりとなって罪となられたことは、私たちが神様の義とされるためであると語っています(Ⅱコリント5:21)。イエス様が私たちの代わりとなって成された救いの目的は、完全なる代替です。主は私たちの代わりに罪となられ、私たちに主の義を下さったのです。

キリストの中で私たちが受けた救いは、このように比喩することができます。一人の男が過ちを犯して死刑宣告を受け、水に落ちて死ぬのを待っていました。すると、彼の親戚の中の一人が来て“私があの人の身代わりになります。私を代わりに水に落としてください。”と言いました。“あの人を落とすなら、私がロープや潜水士を送って助けます。”と言ったとしても、すごい事ですが、彼はそのように言ったのではありません。彼は有罪宣告を受けた男性の身代わりになったのです。これが、私たちがキリストの中で受けた救いです。主は私たちが解放されるために、ご自身を私たちの代わりに捧げることで私たちを救って下さいました。

イエス様は単純に私たちを罪から救われただけではありません。主はまた、私たちに主のいのちを与えられました。あなたの代わりとなったキリストの犠牲の重要性を悟るならば、あなたは主があなたの代わりに死なれたことに感謝し、人生の中で救いの有益をあなたのものとして用いるようになることでしょう。聖書は言います。“まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。”(イザヤ53:4) これは、主があなたの代わりに罰を受けられたという意味です。私たちの平和のための懲戒、すなわち私たちにいのちと平和をもたらす罰が主に置かれたのです。

今や私たちの身代わりとなったイエス様の犠牲によって、罪とその影響や結果があなたを支配してはいけません。あなたは主に仕え、主のために栄光となる日々を生きるように自由にされたのです。

祈り
愛する父よ。イエス様を送ってくださり、私の代わりに死なせ、私の罪に対する罰を負って下さり感謝します。私は罪による主の犠牲が、今私を神様の臨在の中で義として立たせてくださる最終的な犠牲であることを知り喜んでいます。キリストと共に永遠に治め、統治する義の新しいいのちの中に、私を導いてくださり感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン

イザヤ53:10-11、ローマ5:8