2025年1月24日(金)
キリスト・イエス、私達の身代わり
Christ Jesus Our Substitute

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)

聖書には明確には使われていませんが、身代わりという言葉は、イエスが何をするために来られたかを定義し、適切に要約しているものです。それは、何か、または誰かを別のもので置き換えること、別のものの代わりになること、別のものの代わりに置かれることを意味します。イエスが私たちの身代わりであるということは、私たちがイエスの代わりとなるために、イエスが私たちの代わりに来られたということです。なんと素晴らしいことでしょうか!ある宗教指導者は誰もそんなことをしませんでした。イエスだけが、それをされたのです。

預言者たちでさえ、旧約聖書でこのことを預言しました。彼らはキリストの苦しみとそれに続く栄光について預言しました。(1ペテロ1:11)預言者イザヤは、イザヤ書53章4-6節でこう語っています。「…まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

預言者イザヤは、その昔、幻の中でこのことを見たのです。それはまだ起こっていませんでしたが、彼は過去形で語りました。何故なら、神の思考の中では、それはすでに起きたことだったからです。聖書はイエスを、世の初めからほふられた神の小羊と呼んでいます。ハレルヤ!6節の後半に注目しましょう。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

私たちの罪はすべてイエスの上に負わされたのです。預言者が見たのは、メシアが全人類の罪をその身に負うという幻だったのです。8節を読むと、「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。…彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」とあります。やがてイエスは来られ、カパヤの裁きを受け、ピラトの裁きを受けられたのです。その後、彼らはイエスを殺しました。

聖書によれば、神はイエスを打つことをよしとされたとあります。つまり、イエスの魂が罪のための供え物となるように、イエスを死に至らしめたのは神だったのです。イエスの犠牲、イエスの身代わりの御業は、私たちを生み出したのです!そのことを考えてみましょう!私たちが今日、イエスの御名によって生きているのも不思議ではありません。私たちは主の義とされたのです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)詳しくは次回に学んでいきましょう。

祈り
愛する父よ、キリストの身代わりの犠牲によって義の賜物と新しい命をいただいたことを心から感謝します。私は今日、キリストの完成された御業の勝利のうちに生き、キリストのうちにある私のアイデンティティを十分に自覚しています。私はこの真理の光の中を歩み、主の栄光といつくしみを世に宣言します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(ガラテヤ3:13-14)キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

(1ペテロ3:18)キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

(2コリント8:9)あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。