2022年1月24日(月)
キリストの裁きの座
The Judgment Seat Of Christ
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(第二コリント5:10)
キリストの裁きの座は、大いなる白い御座の裁きとは異なります。白い御座の裁きは、あらゆる裁きの中で最も恐ろしいものであり、これは罪人のために用意されているものです。一方、キリストの裁きの座は、私たちクリスチャンが、集団ではなく、主から一人ずつ報いを受けるところです。「…善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
聖書には「各自その肉体にあって」と言うことに注意してください。これは、キリストの体を指しています。あなたは新しく生まれたとき、キリストの体の中でバプテスマを受け、それ以来ずっとそこにいるのです。あなたはこれまで、この体の中でどのように機能してきたでしょうか。あなたは体の中で、良いことをしましたか、それとも悪いことをしましたか。キリストの体の中で行ったことは、良いことでも悪いことでも、誰でも行った事によって報いを受けるからです「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。次のように書かれているからです。『主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる』」(ローマ14:10-11)。
キリストの裁きの座で、キリストにある私たちは、誰一人も罪に問われることはありません。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(第一コリント4:5)。 たとえそれが、一人一人の人生をはかりごとの裁きであっても、私たちは皆、称賛されるのです。
「クリスチャンが悪いことを行ったらどうなるのですか」と尋ねる人がいるかもしれません。その答えは、第一コリント3章13―15節に書かれています。「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」主のためにさらに働き、心を尽くして仕えてください。ハレルヤ!
祈り
愛する主イエスよ、福音を伝えることに参加できる特権と機会を与えて下さったことを感謝します。私は、主の前に立ち、私の体の中で行ったことすべて説明するその素晴らしい日を、期待しながら待ち望んでいます。御国のための私の奉仕と犠牲はすべて無駄ではないことを知って、その日がどんな喜びの日になるのか、私は大変喜んでいます。アーメン。
参考聖書
(黙示録22:12)見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
(第一コリント9:24-25)競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。