The “Imitation” Of Christ

“ですから、愛されている[父を真似る] 子どもらしく、神にならう[主を真似して、主の模範に従う] 者となりなさい。 {Therefore be imitators of God [copy Him and follow His example], as well-beloved children [imitate their father]}”(エペソ5:1, AMP)

‘キリスト教’を‘キリストを真似ること(imitation of Christ)’と定義する人々がいます。これは正確な定義ではありません。キリスト教は、あなたの内におられるキリストを表すことです。例えば、家の中に台所はありますが、台所がすなわち家ではありません、キリスト教の中には、キリストを真似ることはあります。しかし、キリスト教が本質的にキリストの真似では無いのです。

まことのキリスト教を理解したことの無い人々が多くいます。そういった理由のために彼らは全ての人々にキリストにならうようにと言います。しかし、キリストにならうようにというメッセージは、全ての人々のためのものでは無く、神様のいのちと本性を内に持った人々のためのものなのです。あなたの内に主のいのちが無いのならば、あなたはキリストをならうことは出来ません。どのように私たちが、キリストを本当に真似ることが出来るでしょうか?主がなされたように十字架で死にますか? 主が、ご自身のなされた事ごとを、私たちにもしなくてはならないと言われたのでしょうか?主がなされたように、私たちも荒野に行って40日昼夜断食しなくてはならないのでしょうか?主の習慣や、服、声のトーンを同じく真似るからといってできることでしょうか?もちろん違います。しかし私たちは、御言葉の中で主について研究する事が出来ます。御言葉から主を見て、主の模範にならう事ができるのです。

Ⅰペテロ 2:21-23は、私たちが主にならう事ができる分野を教えています。 “あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。” 私たちは、主の義の人生、完全なる疎通、赦しとあわれみ、謙遜と愛の本性にならわなくてはいけません。

主の特徴を一言で要約するならば、愛です。従って、私たちも愛の中で行う事で、主にならわなくてはいけません。エペソ5:2(AMP)は、私たちに強く勧めています “…また、愛のうちに歩みなさい。[互いに尊重し喜びなさい] キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。{…walk in love, [esteeming and delighting in one another] as Christ loved us and gave Himself up for us, a slain offering and sacrifice to God [for you, so that it became] a sweet fragrance.}” Ⅰヨハネ4:7-8は言います。“愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。”

祈り
愛する父よ。あなたの御言葉に対する啓示とあなたの御心を行う知恵によって、私の心と霊を満たして下さり感謝します。私の心を父の御言葉に置く時、私の内にキリストの姿が現れ、父の愛の品性と義の本性が毎日私を通して現れます。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン

参考聖句 Ⅰヨハネ4:7-9