The Uniqueness Of His Ascension
“だれも天に上った(ascend)者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。”(ヨハネ3:13)
ある人々はエノクとエリヤも同じく“昇天”したと主張します。それならイエス様はなぜ‘人の子のほかには天に上った者はいません’と言われたのでしょうか? 真理はエノクとエリヤが天に上っていないということです。聖書を学ぶときは、翻訳された単語の原語を注意深く調べなくてはなりません。なぜなら、ある翻訳は単語をもっとなめらかに訳そうとして真理から離れてしまう場合もあるからです。
例えば、エノクの場合聖書は“エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。”(創世記5:24)と言います。ここで“エノクは神とともに歩んだ。彼は天に上っていった。”と言わないことをみてください。代わりに彼は誰かが取られたので、すなわち地から引き上げられたり、移されたりしたから死を見なかったのです。ヘブル書11:5は言います。“信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。”これは“昇天”ではありませんでした。
それでは、エリヤの場合をみましょう。エリヤとエリシャがヨルダン川を渡った後、エリシャがエリヤに求めて“では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように”と言い、これにエリヤがこう答えました。“・・・私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがあなたにかなえられよう。・・・”(Ⅱ列王記2:10) 次の箇所では彼らがまだ話をしながら道を歩く途中に起こることを見せてくれます。“・・・一台の火の戦車と火の馬が現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。”(Ⅱ列王記2:11) これも同じく“昇天”ではありませんでした。
例えば教会で携挙が起こるときも、私たちが天に“上る”のではありません。天に“移され”たり“引き上げられ”るようになるでしょう。昇天するということは、空中に浮いて天に上る(levitate)ことです。言い換えれば、自分自身の力と能力で行くことです。そうなさる方はただイエス様だけでした。使徒の働き1:9で、イエス様が弟子たちに語られる途中で“・・・イエスは彼らが見ている間に上げられ(he was taken up)、雲に包まれて、見えなくなられた。”と言っています。ここで使われた“上げる(taken)”という単語はギリシャ語で“エパイロ(epairo)”であり、これは自分自身を高く上げたり、引き上げる(exalt or lift oneself)という意味です。イエス様は自ら、他の外部の力によらず、イエス様の中にある力をあらわされ地から天に浮き上げられたのです。だれもそのようにした人はいませんでした。主の御名に永遠なる栄光をおかえします!
祈り
私は全ての統治と権勢と力と主権とこの世だけでなく、来たる世で呼ばれる全ての名にまさるキリストと共に、天の王国に座っています! 私を通してキリストがこの地で生きられ、栄光で治められます。ハレルヤ!
参考聖句
使徒1:9、エペソ2:5-6