2024年10月14日(月)
イエスは全人類の為にすべての代価を支払った
He Paid In Full For Everybody
「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。」(使徒13:38)
上の節の「罪の赦し」という言葉は、より正確には「赦免」と訳され、罪が取り除かれることを意味するものです。続く39節には、「モーセの律法によっては解放される(義とされる)ことのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放される(義とされる)のです。 」とあります。 義とされるとはどういう意味でしょうか?
それは義と認められ、無罪と宣言されることを意味します。イエス・キリストによって、私たちはすべての罪から無罪とされたのです。あなたはすべての罪から免除されたのであり、あなたを責めるものは何もないのです。聖書が、キリスト・イエスの内にある者には、決して裁きも、罪による避難もないと言われたのも同じ理由からです。(ローマ8:1)
こう考えてみてください。もしあなたが私に借金があったとして、他の人があなたの代わりにその借金を返済してくれた場合、 私はその人があなたに代わってお金を払ったので、その借金を取り消します。私に借りがあったのはあなたなのに、その人が来てあなたの借金を清算してくれたのです。その人は何も私に負うものはありませんでした。では、あなたがまだ私に借りがあると主張したら、それは正しい主張でしょうか?もちろん違います!あなたが直接支払わなくても、誰かがあなたの代わりに支払ってくれたので、その人が支払った瞬間、あなたは自由になったのです。
同じように、イエスが私たちの罪を贖ってくださったとき、神はその負債を清算し、「あなたは義とされた!」と言われたのです。それはどういう意味でしょうか? あなたが「赦免」となり、無罪判決になったということです。あなたを責め立てるものはないのです。だから私たちが福音を宣べ伝えるとき、私たちは世にこう言うのです。「あなたは義とされるために苦労する必要はありません。あなたは神の祝福を受ける資格を得るために苦労する必要もありません。あなたのすべきことは、イエスの成し遂げられた御業を受け入れることです。」
あなたのために贖われたイエスを受け入れ、そのうちにとどまってください。イエスがなさったことは、すべてあなたのためでした。イエスは、あなたのために傷つき、あなたのために死に、あなたのために葬られたのです。主があなたが地獄に行かなくてもいいように、あなたのために地獄に行ってくださいました。主はあなたのために死からよみがえられ、新しい命を与えられたのです。今、あなたは新しく生まれ変わり、イエスが死からよみがえられたのと同じ命を持っているのです。新しい命の意識をもって歩んでください。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)
祈り
義なる父よ、イエスの贖いによって私が義とされたことを感謝します。私は御父の義の中を歩み、その義を現します。私は洗われ、聖別され、栄光を与えられ、義とされ、新しい命とキリストの光の中で義として歩んでいます。イエスの御名によって祈ります。ハレルヤ!
参照聖書
(ローマ3:21-28)しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
(ローマ5:12-17)そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。