2025年2月28日(金)
イエスは人として生きた
He Lived As A Man

「 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」(ピリピ2:5-7)

たとえイエスが神の子であったとしても、イエスは天の栄光の中で地上に住んでいたわけではありません。人として生きたのです。それが、イエスが私たちの身代わりとなり、また私たちの模範となり得た理由なのです。聖書はイエスを「人としてのキリスト・イエスです」(1テモテ2:5)と呼び、人に似せて造られました。

イエスが誘惑を受けることが可能だったことには理由があります。(マタイ4:1-11,マルコ11:12-13、ルカ4:1-13)冒頭の聖句にあるように、イエスは人に似せて造られたからこそ、試練に屈することも可能だったでしょう。そうでなければ、あの誘惑は偽物になってしまします。ヘブル4章14節ではこう言っています。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

思い出してください。イエスがゲッセマネの園で祈られたとき、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と言われました。(マタイ26:39)イエスは悲しみを感じました。私たちと同じように空腹を感じ(マタイ4:2)、普通の人と同じように食べ物を食べたのです。(ルカ24:42-43)疲れを感じると眠られました。(マルコ4:38)断食もされました。(マタイ4:2)肉体を自分に従わせたのは、神に従いたかったからなのです。

最初のアダムは神に従わなかったために堕落しました。二番目のアダムであるイエス・キリストは、神に従おうと決心しました。聖書はピリピ2章8節でこう言っています。「(主は)自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」イエスは、私たちにどのように生きれば神を喜ばせることができるかを知ってほしかったのです。イエスは私たちの模範であり、私たちに神の生き方を教えてくださったのです。今、私たちは、義に生き、状況を支配し、御父の御心に絶対服従して、キリストのように生きることができるのです。神に栄光をささげます!

祈り
愛する父よ、私が状況を支配して生きることを可能にしてくださり、いつも主の目的に沿って歩むことができるようにしてくださってありがとうございます。聖霊の力によって、私はイエスがしたように、義に生き、すべてのことにおいて主を喜ばせます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
ピリピ 2:8 、マタイ4:1-2、ピリピ2:5-8