Jesus Paid It All
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら…」(イザヤ53:10)
主イエスは、ご自分の罪のためではなく、私のために十字架の苦しみと恥を耐え忍びました。イエスは私たちの代わりとなって、私たちのために苦しまれました。
主イエスは、私たちの罪の重荷を背負い、十字架上で苦難の中に叫びました。「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である」(マルコ15:34)。私たちの罪がイエスの上に置かれたので、神はイエスに背を向けられました。ハバクク1:13は、神の目はあまりきよくて、悪を見ないと言っています。
イエスは、これを見越してゲッセマネの園で祈ったのです。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)。聖書は、イエスの汗が血のしずくのように地に落ちたと具体的に記録しています。
イエスはそのような苦悩と魂の苦しみの中で祈りました。イエスは御父をとても愛していたので、御父から切り離されることを望んではいませんでした。しかし、御父はイエスが世の罪の犠牲になることを望んでいました。
それで、イエスは十字架の上で死んで、地獄に下られました。私たちのために地獄で神から罰せられました。イエスはただ地獄に行ったのではなく、悲しみに置かれました。今日の聖書によれば、私たちのためにその御業を行なわれた方は神でした。聖書は、イエス・キリストは担うべきであるすべての罰を受けた後、御霊において義とされたと告げています。(1テモテ3:16)
このように、イエスはあなたの代わりに受けた苦しみと犠牲によって完了したため、今日、罪と罪による結果などは、あなたを支配することができません。聖書はイエスを通して私たちは義とされたと述べています。私たちは正しいと宣言されました!今、あなたはイエスによって主に仕え、永遠に主の臨在の中で喜んで生きることができます。
祈り
愛する御父よ、イエスを遣わし、私たちの代わりに死に渡され、私たちの罪の対価をすべて支払ってくださったことを感謝します。私の罪について、イエスの犠牲は、私を主の御前で義とされ、この新しい義の人生へと導かれたことを知って喜んでいます。主イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(ローマ5:8) しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(2コリント5:21) 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。