Praying In His Name

「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」(ヨハネ16:22-23)

イエスは、今日のあるクリスチャンが行っているとは違って、私たちを代わって祈ってもらうように、天に召された聖徒たちに求めなければならないと言われたことがありません。イエスでさえ、御父ご自身があなたを愛しているので、あなたを代わってイエスが祈らないと言われました。従って、一部のクリスチャンが誤解しているように、イエスが私たちを代わって御父に願われるため、御父のそばで執り成しているという考えは、聖書的ではありません。イエスは次のように言われました。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。」(ヨハネ16:26-27)

今日の御言葉で読んだとおり、イエスの名前を通してではなく、イエスの名前で(中で)祈る方法を私たちに教えてくださいました。イエスの名前を通して祈ることと、イエスの名前で(中で)祈ることには違いがあります。イエスの名前を通して祈ることは、イエスを媒体にすることです。イエスの名前で(中で)祈ることは、イエスが私たちに与えられた代理権を行使することです。誰かの祈りを聞いて「私たちの主イエス・キリストを通してお祈りします。」と結びの声を聞くなら、その人にまだ祈りが終わっていないことを教えてあげてください。その祈りは答えられないからです。

あなたは、「でも私はこれまでそのように祈って答えを得たよ」と言うかもしれません。それはあなたがまだ霊的な幼い子なので、神はあなたが成長するのを待っているからです。聖書は言います。「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)。これがあまり意味がないと思うならば、「イエス・キリストを通して命じる、出ていけ!」と言って、悪魔を追い払ってみてください。働かないでしょう。なぜなら、それは御言葉の方法ではないからです。

イエスは、マルコ16:17でこう言われました。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り」 イエスは「私の名前を通して…」とは言われませんでした。「イエスの名前で」祈ることは、イエスの権威、栄光と人格を引き受けることです。イエスの名前で何かを父に求めたり、イエスの名前で要求したりする時、それはイエスご自身が求めることと同じです。私たちはイエスの名前で生きています。ハレルヤ!

祈り
愛する御父よ、イエスの名前で祈り、答えを受け取ることができる法的権利を与えてくださり感謝します。今私は、私の人生は祝福され、実り多く、豊かな祝福であると宣言します。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
ピリピ2:5-11 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

ヨハネ14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。