Jesus Is Himself God
「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)
イエスが死からよみがえられた後、イエスは弟子たちに現れました。しかし、そのうちの一人、トマスはそこにいませんでした。トマスはイエスの復活を疑いました。その後、イエスは別の機会に弟子たちに現れました。その時はトマスが居て、イエスはトマスにこう言われました、「…「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
トマスは手を伸ばし、主の手とわきにある穴を触れました。これに畏敬の念を抱き、トマスは「私の主。私の神」(ヨハネ20:28)と叫びました!トマスがイエスを神として呼んだとき、イエスは「いや、トマス、私を神と呼ぶな。あなたは過剰な話をしている。」と言われていませんでした。イエスはトマスの言葉を受け入れたのです。トマスが実在を語ったからです。イエスご自身が神です。
イエスは燃える茨の中でモーセに話しかけられた神です。アブラハムをハランから呼び出し、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(創世記17:1)と言われた方がイエスでした。ヨシュアに「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト記3:5)と言われた方もイエスでした。
イエスは人の体を着ていて現れた神でしたが、人々はその事実を知りませんでした。イエスはアドナイ(Adonai)、主、御神です! モーセに、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」(出エジプト6:3)と言われた方がイエスでした。
ユダヤ人は、イエス・キリストをアドナイであると告白しなければならなかったので、イエスを受け入れるのが困難でした。ユダヤ人はその言葉の意味を理解していたのです。
考えてみてください。イスラエルの街を歩いていた、その一目で一般的なガリラヤ人は、実際には全能なる神でした。ユダヤ人はそれを受け入れることができませんでした。彼らはイエスを死刑としましたが、イエスは彼らの救いのために小羊としてご自分の命を渡されました。聖書に書いています。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:10-11)
使徒パウロは、キリストのうちに、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っていることを知らせています。あなたがイエスを見ると、御父や御霊を探す必要がないでしょう。イエスは神聖の完全な具体化です。
祈り
尊い主イエス様、あなたは私の主であり、私の神です!主は私の命です。私が主のため生きて、主と共に歩みます。主は私のすべてであり、私の存在の理由です。私は主を礼拝し、今日私に主を明らかにしてくださりありがとうございます。アーメン。
参照聖書
(ヨハネ1:1ー3) 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。