The Fruit-bearing Part Of The Vine

“わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。”(ヨハネ15:5)

ベダニヤからエルサレムに向かう道で主イエス様は空腹を覚えられ、いちじくの木から実を取って食べようとされました。しかしその木には、葉は多くて生い茂っていたが実が一つもありませんでした。イエス様は失望され、実の無いその木をこのようにのろわれました。“「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」”(マルコ11:14)そして次の日、この木を通る時に弟子たちは変化に気づいてこのように言いました。“「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」”(マルコ11:21)

ヨハネの福音書15:2(AMP)で主イエス様はこのように語られました。 “わたしの枝で実を結ばない[これ以上実を結ばない]ものはみな、父がそれを取り除き(手入れし、無くし)、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。{Any branch in Me that does not bear fruit [that stops bearing] He (The Father) cuts away (trims off, takes away); and He cleanses and repeatedly prunes every branch that continues to bear fruit, to make it bear more and richer and more excellent fruit}” あなたは枝、すなわちぶどうの木の実を結ぶ部分なのです。

主はあなたが単純に実を結ぶことだけでなく、その実が残って持続的に増え続けることにも関心を持たれます。主は産出が常に増加する人生へとあなたを導かれました。非生産的になるということは、あなたの召しを下回る人生を生きるという意味です。農夫がより多くの実を結ぶために自分の木を枝刈りするように、同じく主もあなたがより生産的になるように私たちを枝切りされます。
また主は、枝がぶどうの木に繋がらずには自ら実を結ぶことはできないように、私たちも必ず主の中にとどまることをはっきりと語られました。 “あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、…”(ヨハネ15:16)

祈り
愛する父よ、生産的で効果的な人生へと私を選んで任命して下さり感謝します。私はぶどうの木に繋がっているため、永遠の義に至る実を結び、私が手をつける全てのことで栄えます。イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン

参考聖句
ヨハネ15:5-8