Everything Has Intelligence

「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」(ローマ8:19-21)

周りを見回すと、自然の素材から作られた物は、私たちがその物に与えた目的以外は何もしていません。しかし、その自然の物にも、もっとできることがあるのです。自然の物は、あなたの言うことを聞くことができます。なぜなら、すべての命あるものには知能があるからです。

モーセについて、民数記20:8から考えてみてください。神はモーセに言われました。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」 神が言われたとおりしたモーセによって、人々は飲む水を得ました。

次に、人々は喉が渇き、水を求めると、神はモーセに言われました。人々の前で、モーセの手の杖を持って、岩の前に立ち、その岩に水を出せと言うように言われました。しかしモーセは、岩に話しかけらず、岩を打ちました。神はモーセが、岩に話しかける代わりに、岩を打つことが気に入りませんでしたが、それにもかかわらず、水は出ました。今、ここで注目すべきポイントは、岩にも知能があるという点です。

マルコ11章では、聖書は、イエスが木に話しかけられたことが記録されています。イエスはおなかをすかせており、イチジクの木を見て、実がなっているかと期待されましたが、イチジクの木には実がありませんでした。聖書は、「イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。」(マルコ11:14)と記録しています。 最初の記録は、「イエスはその木に向かって言われた。」と言われたことに注目してください。イエスは木に向かって言われたのです。その後、イエスの弟子はイエスが木に向かって話すのを聞かれました。翌朝になると、その木は根から枯れてしまいました。(マルコ11:21)

生きているものも、生きていないものも、すべてのものは、知能があるということです。聖書には、すべての被造物は、苦しみうめきながら、主の再臨を待っていると記録しています。すべての被造物は、縛られていながら、もはや神の子どもたちが解放されるのを苦しみながら待っています。私たちには、その解放する役割があるのです。私たちは世界の希望であり、光です。だからあなたの環境で、あなたの周りのすべてのものに祝福と命を語ってください。神に栄光がありますように!

告白
私は神にあって王であり、祭司です。したがって、私の口にある言葉は、霊であり、命です!私は、私のまわりのものに命を与えることができます!私の世界にあるものすべては、絶えず、命と活力に満たされます!神をほめたたえます!

参照聖書
マルコ11:22-24 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。 23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。 24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」