いつでもどこでも主を礼拝します
Worship Him Anywhere…Anytime

「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。」(黙示録21:22)

旧約聖書で、イスラエル人は神殿で神を礼拝していました。しかし、新しいエルサレム(New Jerusalem)の美しい啓示の中で、使徒ヨハネは、神殿がなくても神の都が存在できるということに感嘆の声を上げています。旧約聖書の時代と同じように、ある人は神殿を見ることを期待していたでしょう。しかし、この新しいエルサレムには、都全体が全能の神と小羊の住まいとなるため、神殿は必要ありません。これは驚くべきことです。

言い換えると、その町のいたるところに主の存在があり、町全体が主の神殿となっているのです。このことは、イエスがサマリヤ人の町スカルで一人の女と関わったときに言ったことを思い起こさせます。その女は、「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(ヨハネ4:20)と言ったのです。 しかし、イエスはこう答えられました。「… 真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」(ヨハネ4:23)。なぜでしょうか?彼らは、霊において、どこでも、どんなところにいても、神の臨在を経験することができるからです。

今日、あなたはどこへ行っても、あなたの中に、そしてあなたと共に主の臨在を運んでいます。このことから、使徒17章28節で、使徒パウロの言葉をよりよく理解することができます。「私たちは、この方の中で生き、動き、存在しているのです…」。私たちは、主から離れているわけでも、分離しているわけでもありません。私たちは主を求めたり探したりしません。私たちは主の中にいて、主とともにあり、主は私たちの中に、私たちとともに、私たちの周りにおられるのです。あなたがどこにいようと、どこへ行こうと、あなたは主の中で生き、動くのです。

また使徒パウロは、ローマ1章9節でこう言っています。「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りの中であなたがたのことを述べています」。パウロがどう行動したかわかりますか?パウロは、神の御子の福音において、「霊」をもって神に仕えたのです。「仕える(serve)」という言葉は、実は「礼拝(worship)」を意味します。だからこそ、私たちはいつでもどこでも神を礼拝することができるのです。

これは、旧約聖書のように、イスラエルの人々が正しい場所に行って、正しいいけにえを捧げなければならなかったのとは違います。彼らは正しい場所に行かなければ、彼らの供え物が受け入れられませんでした。実際、彼らがサマリヤに新しい神殿を建てたとき、神は怒りました。なぜなら、神の指示によれば、神殿はただエルサレムになければならないからです。しかし、キリスト・イエスにあって、私たちは霊をもって神を礼拝するのです。ハレルヤ!

今も、主に向かって礼拝のために手を上げ、甘い香のいけにえを主に捧げてください。あなたがどこにいても、霊から、そして御言葉に従って、御父を礼拝しましょう。

祈り
愛する父よ、私は今日、私の霊からあなたを礼拝し、ほめたたえます。 主は永遠の栄光の王であり、唯一の知恵ある真の神であり、恵み深く、優しく、聖く、正しく、常に愛し、赦してくださる方です。主を礼拝します。私は主を愛しています。キリスト・イエスにある新しい契約の祝福に感謝しています。ハレルヤ!

参照聖書
(ピリピ3:3)神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

(へブル13:15 AMPC)ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。