2024年7月5日(金)
「良い気分になること」は祝福されていることではない
“Feeling Good” Doesn’t Mean Being Blessed

「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的(肉的)なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:3)

私は神の言葉が大好きです!神の言葉は、私たちがどのように生き、どのように主に仕え、礼拝すればいいのかが、いつもはっきりと示されています。先ほどの冒頭の聖句を少し考えてみましょう。私たちは御霊において神を礼拝し、肉を頼らないので割礼の者だと教えています。言い換えれば、私たちの礼拝は「感覚」や肉の現れとは何の関係もないということです。

一部の人は、ただ「気分を良く」させるある曲を歌いながら、自分が祝福を受けていると思い込んでいるのです。しかし、それがどんなに良い気分にさせるものであっても、聖書の御言葉と一致しない歌なら、あなたの人生に何の改善ももたらしません。

例えば、「力よ、力よ、ペンテコステの力は今日もここにある…… 」という歌があります。もしあなたがその歌が好きで、楽しく歌って、「体を揺さぶり」、あなたが祝福されていると思っていても、そうではありません。聖書には「ペンテコステの力」については何も書かれていません。「ペンテコステの力」というものはないのです。

しかし、かなりの数のクリスチャンがそのような歌を歌っているのです。それは彼らを「良い気分にさせる」からです。良い気分になることと祝福されることとは同じではありません。祝福を受けると、人生が向上します。しかし、人生が改善されなくても、良い気分になることはできます。

踊れる音楽を楽しみに教会に行く人もいるのです。神を賛美しているつもりで、汗びっしょりになるまで踊り狂う人もいます。そのような肉体のダンスは、あなたを良い気分にさせるかもしれませんが、それがあなたの祝福に加えるとか、神が受け入れてくださったという意味ではありません。

真の礼拝は霊によって、霊の中でささげることで、肉によるものではありません。冒頭の聖句を思い出してください。それは、ヨハネの福音書4章23節にある主イエスの言葉と類似しています。「しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」

主は、「御父が、ダンスフロアで思い切り踊り、汗を流す人たちを礼拝者として求めておられる」とは言われていないことに注目してください。真の礼拝は、神の言葉と聖霊によってささげるのです。

ですから、神を賛美するとき、あなたの心を神に同調させてください。神の御名を称える言葉、すなわち、神の尊厳、神の性質、愛、恵み、優しさ、慈しみ、聖さ、義、偉大さと一致する言葉を神にささげるのです。それこそがあなたを祝福し、あなたの人生に変革をもたらすのです。

祈り
愛する父よ、主の御言葉と御心に沿った心で、霊と真理をもって、主を礼拝する特権、祝福、機会を与えてくださったことを感謝します。主の御名をほめたたえる賛美を歌うのが、いかに輝かしいことでしょう!主はすべての偉大な王であり、唯一の真実で正しい神です。私は今も、そしていつも主を愛しています。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(ヨハネ4:23-24)しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

(詩編95:6)来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

(コロサイ3:16)キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

(ヘブる 13:15) ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。