It’s Not Enough To Be “God-fearing”

「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:7)

ある人々は、まだ新しく生まれているわけではないとしても、「信心深い」または「神を恐れている」人と見られています。しかし、信心深い、または神を恐れることは、生まれ変わることとは違います。

使徒10章で、私たちは最も興味深い事例として、非常に「敬虔な人」コルネリオの回心を見出すことができます。「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」(使徒10:2)。なんて素晴らしい描写でしょう!

コルネリオは慈しみ深く、寛大で、「神を恐れて」いる人で、いつも一貫された祈りの生活をし、やはり正しい人でした(使徒10:22)。コルネリオは幻を見ました。「ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。…」(使徒10:3)。 しかし、コルネリオは救われていなかったし、新しく生まれていない人でした。御使いは、コルネリオに、「さあ今、ヨッパに人をやって、シモンとう人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」と言いました。(使徒10:5-6)

今日の本文で、イエスはニコデモとの会話で、遠回しな言葉ではなく、イエスは、「あなたは新しく生まれなければならない」と言われました。イエスは、「神を恐れるならば、大丈夫です」とは言われていません。イエスは、人の霊的な再創造の必要性を表現するため、「新しく生まれる」という言葉を使われました。時々、私達はコルネリオのような人々と出会います。彼らは良い評判と道徳的な性格を持っています。しかし、他の人から良い評判を聞いていても、神の救いに値するわけではありません。

これが私たちの福音を宣べ伝える理由です。福音はイエス・キリストについてのもので、あなたが何を行なったか、あるいは行わなかったのかについてはありません。福音はキリストについてのもので、キリストがあなたのためになさったことに関するものです。もし、あなたが福音を受け入れるなら、救いはあなたのものです。聖書は述べています、「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」(使徒13:39)

もし今日これを読んで、あなたがコルネリオのようであるならば、あなたは救われるために、御言葉を受け取る必要があります。その御言葉は、ローマ10:9にあります。 「…なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」 これが救いを受ける聖書的な方法です。

祈り
天の御父よ、私の口でイエスを主と告白し、神がイエスを死者から復活させたことを心から信じる時、私を救ってくださったことに、永遠に感謝いたします。そして今日、私は世界の救われていない人々のために祈ります。この栄光ある福音の光が、救いのために人々の心に輝くことを、イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(マルコ 8:36-37) 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

(ヨハネ3:3) イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

(使徒13:38-39) ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。